「アテルイ」のその他の用法については「アテルイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
束稲山のアテルイ像
アテルイ(延暦21年8月13日〈ユリウス暦802年9月13日、先発グレゴリオ暦802年9月17日〉[1])は、日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。『続日本紀』では公姓を付せず阿弖流為(あてるい)と記される。
8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長とされる[2]。史実にはじめて名前がみえるのは、古代日本の律令国家(朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて、紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中である。その後延暦二十年の征夷が終結した翌年胆沢城造営中の坂上田村麻呂の下に盤具母禮とともに降伏し、田村麻呂へ並び従い平安京へ向かい、公卿会議で田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出たことに対して公卿達が反対したため河内国杜山(椙山、植山とも)で母禮とともに処刑された。
なお、本来の表記は前述の通りだが、本項では「アテルイ」として解説する。また必要に応じて「大墓公阿弖流為(大墓公阿弖流爲)」「大墓公阿弖利為(大墓公阿弖利爲)」「阿弖流為(阿弖流爲)」「阿弖利為(阿弖利爲)」「大墓公」と表記する。
名前について
姓と名アテルイ生誕の地
大墓公阿弖流為または大墓公阿弖利為は、古代日本の律令国家から「水陸万頃にして、蝦虜、生を存す」[原 1]、「賊奴の奥区なり」[原 2]と呼ばれた、現在の衣川以北の北上川流域平野部となる磐井郡・江刺郡・胆沢郡一帯(岩手県南部)に勢力を持っていたと考えられている胆沢の蝦夷の族長である[3]。
蝦夷社会が記録した史料は残っていないが、古代日本の律令国家が編纂した六国史が彼の名前を4度記録している[3][4]。その内訳はいずれも旧字体で、延暦8年の巣伏の戦いの記事の中に「阿弖流爲」[原 3]で1度、延暦21年の降伏の記事の中に「大墓公阿弖利爲」[原 4][原 5][原 6]で2度、「大墓公」[原 7]で1度となる[5][4][6]。このことから本来の名前は「大墓公阿弖流爲」または「大墓公阿弖利爲」であった[4][6]と樋口知志はいう。アテルイ広場のシンボル像
姓については、朝廷から与えられた「公」の姓が付されている[原 6][6]。坂上田村麻呂のもとに帰降した直後の記事のため、大墓公の姓は降服後に律令国家から賜与されたものとする見解がある[6]。しかしながら結果として河内国椙山で斬られたことからみても、律令国家が帰服した人物にわざわざ姓を与えたとは考えがたく、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられるため、大墓公の姓は朝廷軍と戦う延暦8年より以前に律令国家から賜与されていたものと考えるのが妥当であるとの見解もある[6]。いずれにせよ彼ないし大墓公一族が、かつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示す[6]。
名については、『続日本紀』は「阿弖流爲」、『日本後紀』に基づく『日本紀略』『類聚国史』は「阿弖利爲」と表記しているが、正式な漢字表記が「阿弖流爲」なのか「阿弖利爲」なのかは不明[4][7]。